感覚を疑うことも

不安定な側臥位の姿勢をとってもらうと、その方の身体感覚の特徴がよく表れるものだと感じます。


自分が思っていた「私は今こうなっている」という感覚と実際のそれとの間には、随分な違いがあることに気付いて驚かれる方も少なくはありません。


体幹の筋肉の働き方ということもありますが、位置覚のような自分の関節がどこでどのような状態にあるかを捕える感覚が薄かったり、捉えていることと実際の状態との不一致があることもありますし、「視ること」が姿勢を保ったり、空間と自分との関係性を掴むことにうまく協力できていないようなことも見受けられます。


先日も、ある生徒さんに側臥位のバランス感覚を尋ねてみると、「左を下にした時の方が不安定に感じる」というお話だったので、「では、その時どこを見ていたかしら?」と更に質問してみました。

すると彼女は、右を下にした時と同じように遠くの壁のコンセントのところを見ていたと答えました。

実はその時の写真も撮っていたのですが、彼女が「壁のコンセントを見ていた」と記憶しているその時、実際には胸の前に置いた手の指先を見ていたのです。見ていたというより、見ているようで見ていなかったということかもしれません。


「見ていたつもり」のことと、実際に見ていたこと、「していたつもり」のことと、実際にしていたこと、あるいはしていなかったことは、案外このように違っていたりします。
それは側臥位での姿勢制御だけに限ったことではありません。


また、思っていた自分の姿と実際の姿の違いに気付いてから、何故そうなってしまうのかということを確認してみたり、やりやすいと感じる側とを比べてみたりすると、やりにく側ではあまり働いていなかったところがあることに気付いたり、違うどこかがそれを補って働いていたことに気付いたりもするのです。


姿勢や動きを見直していく中では、感じることも大切だけれど、感覚を疑ってみることもまた同じくらい大切なのだと思います。