変化

毎月定期的な講座を開催させて戴いているバレエ教室の先生が、お正月休み明けのお稽古の際の受講生の方のご様子を以下のように綴って下さいました。

お二人とも、月1度の講座のみでなく自習会にも毎回ご参加下さっていたり、パーソナルレッスンもなさっていたりする方々です。


ワークを通じて身体との対話を続ける中、意識の背景で寡黙に起こり始めていたことが、少し「おやすみ」という隙間を経て、その方々の内で熟成されたかのように、フッと現れる変化。それは先生もおっしゃっていらっしゃるように、おそらく未だご自身でも気付かないうちに。


何かが兆してきた時、私たちはついそれを既知の概念に手繰り寄せて解釈しようとしてしまいがちですが、メールを拝見して、起こり始めていることの兆しが表れてくる通り道が、幼子のように開いているお二人の純粋さが表れているように感じました。

ちょうどこのメールを戴いた日、私はミシマガジンのサイトに掲載されていた伊雄大さんの記事に触れて、以下の言葉がスッと心に響いてくるのを覚えながら、ナチュラリゼーションを通じて受講生の皆様と共有したいと願っている感触とがそこに重なるようにも、また無心に行為し続けるお二人の姿が重なるようにも思いました。

言葉を覚えたての幼子が飽きもせず「なぜ?」を連発するのはどうしてでしょうか。それはおそらく答えを欲するのではなく、ただ問うているからでしょう。言葉を覚え、歩み始めるとは、この世界に身を乗り出したということです。かつて私たちは正しさよりもそうして身体をともなう行為によって自分の生を支えるところに喜びを覚えていました。そこで起きた失敗は否定されることではなく、ただの失敗。ただの選択、ただの通過点でしかなかったはずです。

尹 雄大 「成功の物語に飛びつくことで見失うもの」より
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