易きに流れず


ダンスの上での問題や課題があっても、そのダンスという目的を一旦脇に置き、ナチュラリゼーションを通じてシンプルにしてから、深く掘り下げることを数年に渡って継続してきた出張講座の受講生の方々とレッスンをしていると、ひとつひとつのワークの動きの中での気付きが水脈のように連なり始め、脇に置いてあったそれぞれのダンスの問いとも、自ずと結びつき始めていることを感じるような言葉に触れることが多くなり、とても嬉しく感じています。


その中でも、よく耳にする言葉が

「どれだけ余計なことをしてきたか」

という、知らず知らずのうちに自分自身が自然な動きを邪魔していたことへの気付きの言葉ですが、それを感じ取ったということは、すでに身体はそうではない質の動きを体験したということなんですね。


その一つひとつの小さな気付きは経過点であったり、目覚め始めた動きの感覚はまだ淡くても、継続して取り組む中でネットワークとなり、時間はかかってもその新たな水脈の流れが豊かになるにつれ、余計なものが削ぎ落とされた動きが、まずはワークの動きから、そして日常の動きへと少しずつ浸透して行くのです。


そして、その過程を「自分の外にある正しさ」として追い求めたり、答えを教えられてではなく、試行錯誤しつつも自らのうちに見出すという体験を重ねてきたから、考える力やひとつの気付きをそれぞれのダンスの課題に結びつくところまで発展させて行く力も育ってきているのだと思います。


易きに流れず、より小さなこと、より基本的なことに地道に取り組むということは敬遠されがちな時代かもしれません。


けれども、シンプルな、より原初に近い動きの中に、余計な働きのパターンが残ったまま、そしてそのパターンの延長で日常を暮らしたまま、より高度なダンスの動きが変わるでしょうか?

未だ根植えずして、
枝葉の栄茂するものはあらず

菜根譚