わかったと思う前に


若い生徒さんからのフィードバックを戴く際、毎回必ず「〇〇であることがわかりました。」というような言葉を送って下さる場合があります。

何かに気付くことはもちろん大切な一歩ですが、「わかった」と思ってしまうことで、そこから発展していかないことがあるように思います。

わかったという手応えは、もう少し寝かせておいても良いのではないかな…私はそのように思うのです。

それはナチュラリゼーションのワークの中に限らず、世の中にあるたくさんの導きの言わんとしていること、それらにも耳を傾けながら通ずるものを見出したり、視点や表現は違うけれど同じ地平を指しているのではないか、そのような感触が生じてから、ご自身の問いの答えがそこにあるかもしれないと考えてみるくらいで良いのではないかなと。


その時の「わかった」はまだ一つの通過点、あるいは側面に過ぎないかもしれないのです。


その動きの中で起こっている神経生理学的なプロセスが変化していくことと、動きの形ができることは同じではありません。


すぐに正解を見つけなければならない、正解を答えなければいけない
どこかでそのように考えている節がないでしょうか?


下の言葉は詩人長田弘さんの読書に関する言葉ですが、わかったという言葉は、もっともっと様々な経験を重ねてやっと「そうかもしれない」と思えるようなことなのではないかなと思うのです。




出来合いの合言葉にたよってかんがえるんじゃなしに、合言葉にたよる生きかたを疑うことによって、手ずからかんがえる。みずから疑うところからちがった言葉とつきあうということがはじまるのであって、読書というのは本来、そうしたちがった人びとのもつちがった言葉にむきあう一人の経験を土台としています。


長田弘